神道と神葬祭

〇近世宗教としての神道

神社信仰は日本古来の民族宗教ですが、「神道」という一つの体系をもった宗教として成立するのは鎌倉時代中期以降のことです。神道の体系や儀礼を作り上げるのに特に貢献したのは吉田兼倶(1434~1511)です。兼倶は密教や陰陽道を取り込み神道を体系化していきましたが、日本においては神道が儒教や仏教に対して宗主的な位置を占め、万法の根底であると理論づけました。

〇吉田神道による地方神社の組織化

惣村における寺院の建立や寺檀化の進行により、地方においては仏教の影響力が強まる反面、神社は地位の低下を招きました。他方、神仏習合(神道と仏教の融合)によってできた、神社内に造られた真言宗や天台宗系などの寺院である神宮寺や別当寺も室町時代後期になると寺院を離れ、修験道の手に移っていきました。吉田神道はこうした神社、神宮寺、別当寺などを唯一神道として支配下におくようになり、それはほぼ1700年頃には完成されたと言われます。

〇儒学者からの仏教批判と儒葬

藩などの行政に関係した儒学者からも仏教批判が出てくるようになります。特に民衆の寺院への寄進、布施は、藩の徴税と対立したため「寺院が民衆を経済的に圧迫している」などと、僧侶の道義批判の形をとって仏教批判を強めるところとなります。

17世紀には水戸藩や土佐藩などは儒葬が行われています。

〇仏教排撃と神葬祭

仏教からの独立を果たそうとする神社にとっての大問題は、檀家制度(寺請制度)でした。これによって、神職といえども檀那寺に属さなくてはならず、また仏教葬を強いられていたからです。そこでそれらの神社は、仏教を排撃し、仏教色を払拭し、宗教としての神道を確立すると共に、神葬祭を唱えるようになりました。しかし、神葬祭を実施することは檀家であることをやめることでしたので、檀那寺の許可が必要となります。これは、寺院との軋轢(あつれき)を生じさせるところとなりました。幕府は宗教問題としてよりも民衆支配体制の問題として檀家制度をとらえていましたので神葬祭を容易には許可せず、ようやく1785年、幕府は「吉田家から葬祭免許状を得られたならば神職当人および嫡子(ちゃくし)に限って寺院の宗門を離れて神葬祭をしてよいが、その他の家族は宗門を離れてはいけない」という判断を示し、これは明治維新まで続きます。また、この当時の神葬祭というのは儒葬的なものにとどまりました。神葬祭の形式がまとめられるのは1872(明治5)年に維新政府の教部省により制定された『葬祭略式』によってです。幕末になると平田篤胤(1776~1843)などによる復古神道、国学者による排仏論が強まり、社会的な影響を与えることになりました。

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